高次脳機能障害 就労日誌

17歳で自殺未遂、高次脳機能障害に。リハビリ、職業訓練を経て障害者枠で正社員就労中 ASD積極奇異。精神2級。

年末を迎えて

今年は前職場での新年会でキャバレーに連れていかれ、

試用期間後も正社員に登用されないことで、

社長と喧嘩して辞め、新年早々激動の年でした。

とにかく仕事に復帰するのに必死でした。

四月に退職後、六月から新職場で働き出し、

有難くも新入社員と同じ研修を受けさせてもらい、

半年後には正社員として働き始めることができました。

退職後はかなり落ち込んでいましたが、食うや食わずじゃいられません。

そんなこんながあっても、私が挫けずになんとか前に進めたのは、

一重に私の伴侶が支え続けたくれたおかげなのです。

親との精神的な関わり合いがもてず、大変な人は

外部要因次第で破滅にも救済にも向かいます。

今の職場には、上司に恵まれました。

また、私生活が安定したことにより、

不安定だった対人関係も改善し、友人も増えました。

表情も明るく、徐々に自信が戻ってきたのが実感できます。

久々に買ったゲームで、友達と遊べるのが楽しいです。

なんといっても、夜寝て、朝起き、働けるのは嬉しいです。

本当に身の詰まった、良い一年を過ごせました。

お世話になった方々と我が伴侶に、一つでも恩返しできるよう、

来年も出来る範囲でやれることを増やしていけたらと思います。

本当にありがとうございました。

来年も宜しくお願いいたします。

良い垣根は良き隣人を作る

タイトルは、英語圏のことわざである。

原文 Good fences make good neighbors.

そのまんまなのだが、日本でいう親しき仲にも礼儀あり。

節度ある振る舞いをし、自他の境界をはっきりさせておけば、

野蛮、傲慢で侵略的な悪い隣人ではなく、

歩み寄り、助け合い、労いあうのことできる、

良き隣人を得ることができるという意味である。

 

私は自分の特性ゆえ、他人のパーソナルスペース、

生活圏内に頓着なく踏み込んでしまったり、

干渉可能領域を逸脱するような侵略行為をしがちであった。

自覚した後は、どんなに仲良くなっても、

「相手は良い意味で他人であり、別の宇宙であり、

別の倫理規程によって所轄されている。」

という意識をなるべく持つよう改善した。

これを侵し、他人の考えをさしたる正当性もなく

変えようと踏み込む行為は、友人を減らすことに直結している。

どんなに仲が良くなり、冗談を言い合えるようになっても、

超えてはいけない一線があることを理解しなければならない。

また、最初から支配する目的で、ガードが緩く、

自尊心の低い人間をあえて狙うような、

利益最優先の人間や、底意地の悪い人間に、

散々利用されぬよう気をつけるべきだ。

 

正直、気を使わない仲というのも、難しい。

長い間共に生活しても、ノンバーバルなコミュニケーションは、

その時の体調や周辺状況によって、うまく感じ取れない。

言語での意思伝達でさえ、表情をうまく作れないと誤解の原因だ。

身近な人間とこそ、こまめにコミュニケーションをとって、

ヘルツを合わせておいてやることが大切だ。

その際は、相手に対する敬意を忘れないことが、第一である。

価値観と個人領域

いずれ死ぬのに、みな、なぜ何か成そうと

必死で生きてるのか不思議だった頃があった。

生きるというのは、色々な物事を経験し、

感じ、判断するための手段でしかなく、

生きることそのものに、たいした価値はない。

もし価値があるなら、それは自分ではなく誰かにとって、

価値があるということなのだろう。

価値という概念は、なにか大変に、

生きることそのものに結びついていそうだ。

価値というのも、ふた通りあり、これは、

相対的(客観的)なものと、絶対的(個人的)なもの。

相対的なものをいくら考えてもキリがないので、

なんの後ろめたさもなく、良いと直感できること

そのものこそが、真の快であろう。

他人が、心から安心し、私に四肢を投げ出す様子を見て、充足を得る。

私はいま、背中を預けられる程度には頑丈で、

お前を守ってやれるほどの体力と知性があるのだ。

その瞬間、神が降りる。

身体的限界領域を超え、地球を覆う大気のように、

全てを受け入れる用意があるとすら、思えてくる。

死は織り込み済みなのだ。

トラブルも悲劇も、全ての結末は、起こるべくして起こる。

惰性で生きるには辛い時間が長すぎる。

だから、モルヒネまがいの努力をする。

そういう悲劇と、それでも乗り越えてきたという、

小さなプライドだけで、多少ひもじくても生きられる。

結末などわかっている。誰の上にも等しく最期がくる。

子供を生きる

20歳なりたての人は、まだ顔も幼く、

背丈や身格好ばかり、大人のようです。

でも、人を待つ時の仕草、謝り方、

落ち込んでいる人への対応、怒り方、

きちんと場数をこなしてくれば、中身もそれに伴っていきます。

物事に責任持って取り組み、投げ出さない持久力、

必要な時には適切に援助を求められる判断力や、

失敗した後のリカバリ能力、対応を間違えないための洞察力、

ピンチもチャンスに変える機転の良さ、

成功するための貪欲な根回しを行う計画力。

どれもこれも、いくら本を読もうが、人に教えを受けようが、

一朝一夕に手に入るものではないゆえに、

実際の経験のみが肉になるというわけです。

これらをきちんと兼ね揃えた大人は、

それは素晴らしい誇れる人生を歩んでいけるのでしょうが、

現実そうはいかないのとの方が圧倒的多数です。

 

なんらかの問題から、適切な程度のトライアンドエラー

繰り返さずに育った子供は、物事に対して

極端な見方ばかりするようになります。

物事の結果にばかり目がいくようになり、

経緯をよく調べずに判じてしまう。

頭でっかちになり、事前の情報を鵜呑みにして、やる前に諦めてしまう。

成果主義にこだわりすぎると、人生の本質に目が行きにくくなり、

明確な理由がないと、食べ物を食べることはおろか、

存在することすら許されていないと思い込んでしまいます。

こういったことから、認知の歪みが起こっていきます。

 

幼児の行動を考えると、彼らの行動は極めてエゴイスティックで、

時には大人も顔をしかめるような、

悪意の原石が垣間見えることがあります。

彼らに悪という概念がまだなくとも、

大人の反応はそれを悪だと判じます。

彼らがやってはいけないことをしでかした時、

間違っても、感情的になって人格を否定してはいけません。

言葉よりも、行動や表情で、人の怒り度合いはよくわかります。

これを誤ると、行動に誤りがあったと分からず、

自分自身が悪であると身に染み付いていきます。

親に迷惑をかける自分から、社会のお荷物へ

ただスライドだけなのだ、と自己卑下し続けないと、正常を保てません。

親元から離れても、内なる親的規範によって裁かれ続け、

息苦しい毎日を送らなくてはなりません。

 

こうして大人になると、誰かの思い通りになることで、

自分を一定の位置に保とうとするあまり、

自然と支配的な人間を引き寄せるようになります。

よく言う不幸体質というのも、この類と考えています。

そうなれば、直すのは大変です。

生きるために殺し続けた自分の意思、欲求を掘り出し、満たしてやらなければ、

一向に心の空虚さは埋まりません。

みんなが楽しいというゲームをしても、

自分の視点で楽しめないため、不思議と傍観者の立場のまま、

妙に冷静に考えて「今自分は楽しいはずだ」と

納得したつもりになるも、その実楽しくはないので、

狐につままれたような、人生の当事者観が

欠如したまま生きねばなりません。

 

妙に周りと折り合いをつけすぎると、

どんどん本来の自分から乖離した自己像が勝手に作られ、

そのうち自分でもつかめなくなるので、

白い靄に包まれたような不安感に襲われるのです。

 

必要なのは、欲求を素直に認めることです。

一般的に浅ましいとされる感情でさえ、

認めてあげなければなりません。

それをわかっているかわかっていないかでは

自己コントロールの精度はぐんと上がります。

 

大人はコーティング材に過ぎず、コーティングを剥げば

そこにいるのは指をくわえた子供です。

社会的な生活をするための鎧を脱ぎ、子供になる時間も、

真に大人であるためには必要なのだと思います。

うちなる子供を時にしかり、時に甘やかし、

でも必ず、一番の味方でいてやりたいものです。

 

不完全性への愛

初めて会う人間との距離感は、

一般的に遠いものだと思います。

何回も顔を合わせ、会話を重ねることで、

人がお互いの性格や様々な周辺状況を知り、

距離感が徐々に縮まっていき、対人的緊張もほぐれます。

初対面の人間に対しては、ある程度の接し方の規範があります。

まずは、見ず知らずの人間で、これからお世話になる場合、

失礼があってはいけないし、攻撃対象とされないよう、

慎重に言葉、行動を選ぶかと思います。

しかし、この慎重さや丁寧さが逆に作用して、

人との距離が縮めづらくなることもあります。

そこで、私は考えました。どうして慎重になるのか?

だいたい、嫌われたくないからです。

嫌われることが、自分の不利益になるからです。

でも、嫌われない方法なんてありません。

嫌いになるのに理屈がいらない人もいます。

だから1番いいのは、嫌われたことに気づかないことです。

私は、話の間が怖くてしかたありません。

話をしないでいると、目をどこにやればいいか、

どんな表情をすればいいか、わからなくて困ります。

だから、ずーっとマシンガンみたいに喋り続けます。

相手の反応が返ってくるスピードが遅くなってくると

途端に怖くなってまくし立て、相手の反応に注視しないようにします。

それでひとまず安心することができるのです。

もはや会話ではなくトークショー状態です。

先日遊んだ友人も、その多弁さに驚いたようです。

あった後は相手も私も疲れていることでしょう。

私は人と近しい仲になりたいと思っていて、

それが男だろうと女だろうと肉体的な接触を求めている気がします。

つまるところ、実は会話が苦痛なのですが

会話しないこともまた苦痛で、肉体的接触の際は

口を休めることができるので楽ということです。

でも一通り話して仕舞えば本当に話すのは搾り出すようです。

でも強迫的に喋ってしまうのでしかたありません。

自分の不完全性を他人に許して貰うことで、

自滅的思考を停止させることができます。

それをそろそろ、他人に依存するところから

内在する神的存在に担って貰うフェーズに来ています。

人の温もりというのはいいもので、その温もりに触れるたび、

その人の半生を想像したり、疲れた手のしわや、

剥けた唇の皮、ひっつめた頭から飛び出た後れ毛、

掛け違えたボタン、電話での空笑い、仕切りに動く手や足。

全てがその人の生きているかけらの数々です。

人の不完全性を愛さずに、一体何を愛せというのだろうか。

本を読む

最近、少しずつではありますが、

意識して友人を増やそうとしたり、

また絵を描いたり、本を読んだり、

ゲームをしたりできるようになりました。

 

ツイッターのフォロワーのフォロワーを辿ると

思いがけず趣味や共通点のない友人もできて

割と面白く、自分に変化が起きている気がしました。

結論はともかくとして、とりあえずやってみる、

トライアンドエラーができる状況を

取り戻しつつあるのかもしれません。

今年の一歩前進は、前の職場でのハラスメントに対して、

きちんと抗議し、辞めた後も、迅速に転職が行えたことです。

きっと以前の自分ならすぐに腐ってました。

それはきっと、自分が多少"開かれた"

人間になりつつあるということかもしれません。

また、やはり私生活が安定したため、

腰を据えて一つの物事に臨む姿勢がつきました。

やりたいことが増えて、いざやってみても、

続かないことなんてざらにあると思うのですが、

平日の仕事内容などを描いた日記は

かなり役立つので、すっかり習慣になりました。

休暇中は、出かけるか本を読むか、絵を描くか、友達と会うか…

色々と選択肢があるって、とても幸せですね。

仕事をしているから、休みの日に休んだ気分になれます。

仕事をしていないと、毎日辛いです。

誰にも必要とされず、誰にも感謝されず、

誰とも話さず、少しも表情を変えない生活は

とてもじゃないが、生きていけません。

お給料は許しであり、役に立っている証であるので、

溜まっていく通帳の額面を見ると落ち着きます。

 

最近、子供の心理についての本をよく読みます。

人の真似して、読書メーターもまたつけるようにしました。

本をきちんと読まない時期が長いと、

文字を目で追って、その内容がスルッと

頭に入っていくまでに少し時間を要しますし、

運動して焦りを取りたいので不安ですが、

シートン動物記や椋鳩十ばかり読んでいた幼少期が懐かしいです。

 

障害者手帳を更新したら、等級が上がってました。

明日も頑張りましょう。

趣味を取り戻すには

私は、子供の頃、絵を描いたり、動物を触るのが好きでした。

読書も好きで、学校の図書室へ足繁く通いましたし、

そうかと思えば、サッカーやドッジボールも毎日楽しみました。

でもこれらは、人とコミュニケーションをとるための、

1番効率のいい手段でしかなかったようです。

みんなみんな、人と仲良くなって、楽しく過ごすための手段であって、

本質的に物事を極めようとか、そういうレベルで

楽しんでいたわけじゃなかったのに、

私は何か勘違いをしていて、楽しいことを頑張ろうとしたのでした。

案の定、物事を極めようとすれば、孤独に努力を重ねる時間も必要なわけで、

それは決して楽しいわけでもありません。

私は人と一緒に何かやってそれが楽しかったのに、

物事そのものに興味があると勘違いして、

無理して技術や知識を得ようとストイックになった結果、

物事に対する興味や意欲そのものも失ったわけです。

みんなの言う頑張れを信じても、その重たさを計り間違えたので、

結局限度ギリギリまで無理して潰れてしまいました。

もともと生活の上で困っていて、それをどうにか

趣味で得た喜びで補填していたのに、それすら奪えば

立てなくなることはわかっていたのに、自分をいじめればうまくいくと思っていたのです。

仕事に就いて、ある程度の余暇が生まれても、自由だと認識しても、

急に伽藍堂な自分に虚しさを感じて、必死に人と関わって、

何かを取り戻せないか躍起になって、苛立ちを覚えます。

人と共にいたいと感じるのは、

ただ不安を紛らわすためなのかもしれませんが、

あの満ち足りた時間に帰りたいとずっと願ってしまいます。